ミッドウェー海戦とは、1942年6月にミッドウェー沖で起きた日本軍とアメリカ軍との海戦のこと。
日本軍はこの海戦で大敗を喫し、太平洋戦争の重大な転換点となった。
背景
1941年12月8日、日本の空母機動部隊がハワイ真珠湾のアメリカ軍基地を攻撃し、太平洋戦争に突入した(真珠湾攻撃)。空母機動部隊とは、空母を中心とした航空戦を主任務とする部隊のことで、真珠湾攻撃の成功により有効性が実証された。
真珠湾攻撃の目的はアメリカ艦隊の撃滅だが、当日空母の姿はなかった。
MI作戦立案
1942年4月1日、連合艦隊司令部がMI作戦を立案した。MI作戦とは、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻からなる空母機動部隊がミッドウェー島を空襲し占領、その後真珠湾からアメリカ艦隊を誘い出し撃滅する作戦のこと。
日本海軍軍令部や陸軍はミッドウェー島の維持が困難な点等から反対したが、結局作戦は許可された。この時連合艦隊司令部は空母撃滅、軍令部はミッドウェー島占領を第1目標としており、日本海軍内で作戦に食い違いが起きていた。
セイロン沖海戦
1942年4月5日、イギリス領のセイロン島攻略を目指す日本軍と、イギリス軍がセイロン沖で衝突した(セイロン沖海戦)。日本軍の作戦は、空母機動部隊でセイロン島を空襲し占領、その後イギリス艦隊を誘い出し撃滅するというMI作戦に近いものだった。
この時、セイロン島への第1次攻撃が不十分との報を受けた第一航空艦隊司令長官の南雲忠一は、対艦用装備(魚雷や徹甲弾)の航空機を陸用爆弾へ兵装転換するよう指示した。しかし、その後索敵機より敵艦発見の報を受け再兵装転換を命じた。
兵装転換は2時間近くかかり、その間空母は無力状態になるため現場は混乱した。しかし結局日本側の大勝利に終わったため、索敵不備と兵装転換の問題は無視された。ちなみに、南雲の専門は水雷(魚雷等の戦闘)で航空知識は不足していた。
ドゥーリトル空襲
1942年4月18日、空母ホーネットから発艦した爆撃機が初めて日本本土を空襲した(ドゥーリトル空襲)。これにより、軍令部と日本陸軍が空母の脅威を認識し、MI作戦の必要性が高まった。
図上演習
1942年5月1日、日本海軍がMI作戦の図上演習を行った。図上演習とは、海図上で行う作戦のシミュレーションのことで、事前に定めた各軍の戦力や命中率等のデータを用いて行われる。初めは作戦失敗という結果になった。
しかし日本海軍はアメリカ軍を過小評価し、本来変更不可能なアメリカ軍の戦力や命中率を下げ、ミッドウェー島攻略は可能と判断した。
珊瑚海海戦
1942年5月4日-8日、オーストラリア自治領のポートモレスビー攻略を目指す日本軍と、これを暗号解読により察知したアメリカ・オーストラリア軍が、珊瑚海で衝突した(珊瑚海海戦)。これは史上初の空母機動部隊同士の海戦となった。
この時敵空母一隻を撃沈したが、日本海軍も索敵が不十分で軽空母を沈められた。しかし、未熟な第五航空戦隊でもアメリカ艦隊と互角に戦えたとプラスに捉えられ、暗号が解読されている可能性と索敵不備の問題は無視された。
アメリカ軍の動き
日本海軍の通信を傍受したアメリカ軍は、攻撃目標がAFということを知った。そこでアメリカ軍はわざと平文でミッドウェー島からオアフ島へ真水不足と送信した。その後、日本海軍の暗号にAFは真水不足の文言を見つけ、AFをミッドウェー島と把握した。
これにより、ミッドウェー島の兵力が増強され真珠湾から空母が出港した。その際、珊瑚海海戦で損害を受け修理に3ヶ月かかる空母ヨークタウンを3日で戦線に復帰させた。後方の戦艦大和は空母の動きを察知していたが、無線封止のため前線に伝えなかった。
ミッドウェー海戦
1942年6月5日-7日、ミッドウェー海戦が起こった。まず航空兵力の半数をミッドウェー島爆撃にあてたが、攻撃隊より第2次攻撃の要ありとの報を受けた。そこで第一航空艦隊司令長官の南雲は、付近に敵艦はいないと判断し陸用爆弾へ兵装転換を命じた。
その後、遅れて発艦した索敵機より敵艦発見の報を受けたが、索敵機は敵艦位置を遠く見誤った。航空専門で第二航空戦隊司令官の山口多門は陸用爆弾でも空母の甲板を破壊できるため、攻撃隊発艦の要ありと進言したが、南雲は却下し再兵装転換を命じた。
その間、ミッドウェー島と敵艦空母から攻撃機が飛来したが、護衛していた零戦がほとんど打ち落とし被害はなかった。しかし、高高度にいた爆撃機を見逃し赤城、加賀、蒼龍が被弾、兵装転換中の爆弾や魚雷に誘爆し3隻とも沈没した。
残った飛龍もヨークタウンを大破させたが反撃に合い沈没した。ヨークタウンは潜水艦の伊168が撃沈した。結果、日本側空母4隻沈没、戦死者3,000人、アメリカ側空母1隻沈没、戦死者300人となり、太平洋戦争の主導権がアメリカに移った。
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