ボストン茶会事件とは、イギリス本国の植民地政策に反発したアメリカ植民地が紅茶箱をボストン湾に投棄した事件のこと。
この事件でイギリス本国とアメリカ植民地の対立が深まり、アメリカ独立戦争につながった。英語ではBoston Tea Partyという。
事件の流れ
背景
17世紀から18世紀頃、イギリスやフランスは貿易を通じて富を蓄える経済政策を採った(重商主義)。たとえば、イギリスはアフリカ大陸に武器を輸出し、アフリカ大陸からアメリカ大陸へ奴隷を輸出し、アメリカ大陸から綿花をイギリスに輸入した(三角貿易)。
重商主義を支えるためには資源や市場、植民地の獲得が必要だった。1754年から1763年、イギリスとフランスが北アメリカでの植民地をめぐりフレンチ・インディアン戦争が勃発した。イギリスはこの戦いに勝利したが戦費の支出により財政難となった。
そこでイギリスは負債を植民地から回収するという考えに至った。
イギリスの植民地政策
1765年、イギリスがアメリカ植民地に対しあらゆる印刷物に印紙税を課す印紙法を制定した。イギリス議会に議員のいないアメリカ植民地は「代表なくして課税なし」をスローガンに一方的な法律に反発し、印紙法は1年で撤廃された。
1767年、イギリスがアメリカ植民地に対し茶、紙、塗料、鉛、ガラスを輸入する際の課税やボストン税関局の設置等をまとめたタウンゼント諸法を制定した。アメリカ植民地はオランダからの密輸やイギリス製品不買運動で対抗し、課税は茶税を残し撤廃された。
1768年、イギリス軍がボストン市を占領した。1770年、イギリス軍が暴徒と化したボストン市民を射殺する事件が起きた(ボストン虐殺事件)。この事件はアメリカ独立を主張する組織(自由の息子達)によって、反イギリスのプロパガンダとして利用された。
1773年、イギリスがアメリカ植民地にイギリスの紅茶のみを買わせるため、イギリス東インド会社に対しアメリカ植民地で販売する茶の専売権を付与する茶法を制定した。
事件の発生
1773年12月15日までに、イギリスの紅茶箱を積んだ3隻の船がボストン港に到着した。自由の息子達は、紅茶箱を荷揚げせずイギリス本国へ返還するためにイギリス東インド会社の委託を受けた業者達を説得したが交渉は決裂した。
1773年12月16日夜、身元が割れないようにインディアンに扮した自由の息子達のメンバーが紅茶箱を積んだ3隻の船に乗り込み、すべての紅茶箱をボストン湾に投棄した。これをボストン茶会事件という。1774年3月、2回目の紅茶葉投棄が起きた。
事件後の動き
1774年、イギリスはボストン茶会事件の報復措置として、ボストン港の閉鎖やマサチューセッツ植民地の自治権はく奪等をまとめた耐え難き諸法を制定した。これに対し、12州のアメリカ植民地は会議を開きイギリス本国へ抗議した(第一次大陸会議)。
1775年、マサチューセッツ州レキシントンとコンコードでイギリス本国軍とアメリカ植民地軍が衝突しアメリカ独立戦争が開戦した(レキシントン・コンコードの戦い)。
ボストン茶会事件が由来の運動
2009年、アメリカでオバマ大統領の税金の無駄使いを批判する運動が起きた。これを税金の問題が発端となったボストン茶会事件からとってティーパーティー運動と呼んだ。一方、これに対抗する親オバマ派の運動をコーヒーパーティー運動と呼んだ。
アメリカ人がコーヒーを好む理由
今日のアメリカで紅茶よりもコーヒーが好まれているのは、この事件の影響で敵国イギリスの紅茶を飲まない習慣が生まれたためといわれる。
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