ロアノーク植民地集団失踪事件とは?わかりやすく簡単に

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ロアノーク植民地集団失踪事件とは、アメリカのロアノーク植民地で発生した未解決の集団失踪事件のこと。

概要

背景

16世紀末、イギリスが北アメリカの植民地建設を開始した。1584年、イギリスの探検隊が現ノースカロライナ州のロアノーク島にたどり着いた。この土地は独身のエリザベス1世の別名ヴァージン・クイーンからバージニアと名付けられ、すぐに植民が計画された。

最初の植民

1585年、イギリスから約600人の入植者がロアノーク島へ向かった。しかし、ロアノーク島付近の入り江で船が座礁し大半の食料を喪失し、また銀のカップを盗んだ疑いで先住民の村を焼き払い反感を買ったため、入植者は100人ほど残して一旦本国へ帰還した。

1586年、残された入植者は補給を待ち続けたが、結局島に立ち寄った別の船に乗り帰還した。その間、植民反対派の先住民セコタン族の首長を斬首、略奪を行った。その後、増援部隊が到着し島が放棄されているのを確認、数十人の守備隊を残し帰還した。

2度目の植民

1587年、イギリスから約100人の入植者がロアノーク島へ向かった。島に着くと先住民の襲撃を受け守備隊は全滅していた。入植者と行動を共にしていた先住民クロアトアン族のマンテオは、これをセコタン族の仕業と報告した。

そこで、入植者はセコタン族への襲撃を試みたが誤って友好的なクロアトアン族を襲撃してしまった。その後、カニ漁をしていた入植者が先住民に殺された。1587年8月、隊長のホワイトは、本国へ助けを求めるため100人以上の入植者を残し帰還することにした。

帰還前にホワイトは、戻るまでの間に何かが起きた場合は近くの木にマルタ十字を掘るよう指示した。また、ホワイトの娘エレノア・デアがアメリカ大陸で初めてのイングランド人を出産し、地名からヴァージニア・デアと名付けられた。

ホワイトの再訪と集団失踪

1587年11月、ホワイトはイギリスに帰国したが救援の準備は進まなかった。これは、イギリスがスペインとの戦争のために民間船を徴発していたため。 1588年、ホワイトは2隻の小型船で出港したが、途中フランスの海賊に襲われ物資を略奪され引き返した。

1590年8月、ホワイトの一団がようやくロアノーク島に上陸したが、家屋は解体され家財は持ち出され船もなく、入植者は一人も見つからなかった。この時、島内でCROとCROATOANと刻まれた木をそれぞれ発見した。

CROATOANには、クロアトアン族とロアノーク島の南にあるクロアトアン島の両方の意味がある。この時ホワイトはクロアトアン島の捜索しようとしたが、物資の不足や天候の悪化を理由に断念し、結局イギリスに帰還した。以降入植民は見捨てられた。 

主な仮説

失踪理由について主な仮説を以下に示す。

海難事故説

船で本国へ帰還しようとして失敗したという説。 

先住民襲撃説

先住民の襲撃を受け全滅したという説。先住民パウハタン族が対立していたチェスピアン族を全滅させた時、その中に白人がいたと証言している。また1937年、ノースカロライナ州でエレノア・デアが刻んだとされる石が発見された(デア・ストーン)。

この石には、先住民の襲撃によってほとんどの植民者が虐殺され逃れてきたことが書かれていた。この石が本物かどうかは専門家の間でも意見が分かれる。

先住民同化説

友好的な先住民と交流し同化したという説。たとえば、先住民のラムビー族は独特の英語を話し、入植民と同じ姓を持ち灰色の目を持つ者もいる。ラムビー族の祖先は入植者と友好的な関係を築いていたクロアトアン族と考えられている。

1998年、クロアトアン族の拠点だったとされる場所で植民者の所有物と思われる指輪を発見した。しかし2007年、この指輪をX線分析にかけたところ、金ではなく真鍮製ということが分かり偽物の可能性が高いことが判明した。

また、このような遺物は失踪以前の取引で渡された可能性もあるため、明確な証拠とはならない。

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